2007年 05月 26日
奇想の画家「若冲」 |
雨の中訪れた「相国寺承天閣美術館」。
若冲展「釈迦三尊像と動植綵絵 120年ぶりの再会」
第二展示室に入ったとたんに、息を呑んだ。
美術品としての絵の美しさは、もちろんなのだが、違った意味でものすごかった。
あれは、宗教絵画である。「あたりまえではないか」と怒られるかもしれないが・・・。
「仏教絵画のお堂」なのだ。これも「あたりまえ・・・」とおこられそう。
どういったらいいのだろう?
ひとことでいうと「絵画」ではないと思った。
「絵」の美しさは、二の次。
「あの若冲というひとは、これを描くために生まれてきたのではないか?」と素直に感じた。
「釈迦三尊像と動植綵絵」などと銘打っているが、そんなもんじゃない!
「現世極楽堂」といってしまえば簡単すぎるが、
「生」であることに意義があるということを訴えているように思えたのだ。
****************************************
「生きていることを楽しみなさい」「人生こんなに楽しいのです」
「こんな楽しい現世にいるのだから、死んではいけません。」
「ほら、こんな美しい花があるではありませんか!」
「ほら、こんなに美しい鳥も飛んでる。虫も、魚も、貝もみな美しい。ほらよく見なさい!」
しっかりその美しさを味わったなら、仏のもとへ来なさい。悪いようには致しませんから・・・。
*****************************************
大袈裟ではなく、そんな若冲の声が聞こえてくるような気がした。
この「仏教壁画」は、お堂の中になければならない。ばらばらにしても意味がない。
いつきても、誰がきても見られる。そんな風にお寺にあるべき絵だと思う。
生きた、本来の、仏の道を示しているのではないか。
そう、「お堂」のなかにあり、灯明でみたならば、絵の中の植物や生き物は、踊りだすはずだ。
若冲も、そのために描いた「絵画」であり、この絵画を描くために仏門へ入ったのだろう。
宮内庁さん、
もうそろそろお返しになったらどうでしょう?
「国の宝」としてしまいこんでも、意味がありません。
「高松塚の飛鳥美人」のようになるまえに・・・・。
若冲展「釈迦三尊像と動植綵絵 120年ぶりの再会」
第二展示室に入ったとたんに、息を呑んだ。
美術品としての絵の美しさは、もちろんなのだが、違った意味でものすごかった。
あれは、宗教絵画である。「あたりまえではないか」と怒られるかもしれないが・・・。
「仏教絵画のお堂」なのだ。これも「あたりまえ・・・」とおこられそう。
どういったらいいのだろう?
ひとことでいうと「絵画」ではないと思った。
「絵」の美しさは、二の次。
「あの若冲というひとは、これを描くために生まれてきたのではないか?」と素直に感じた。
「釈迦三尊像と動植綵絵」などと銘打っているが、そんなもんじゃない!
「現世極楽堂」といってしまえば簡単すぎるが、
「生」であることに意義があるということを訴えているように思えたのだ。
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「生きていることを楽しみなさい」「人生こんなに楽しいのです」
「こんな楽しい現世にいるのだから、死んではいけません。」
「ほら、こんな美しい花があるではありませんか!」
「ほら、こんなに美しい鳥も飛んでる。虫も、魚も、貝もみな美しい。ほらよく見なさい!」
しっかりその美しさを味わったなら、仏のもとへ来なさい。悪いようには致しませんから・・・。
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大袈裟ではなく、そんな若冲の声が聞こえてくるような気がした。
この「仏教壁画」は、お堂の中になければならない。ばらばらにしても意味がない。
いつきても、誰がきても見られる。そんな風にお寺にあるべき絵だと思う。
生きた、本来の、仏の道を示しているのではないか。
そう、「お堂」のなかにあり、灯明でみたならば、絵の中の植物や生き物は、踊りだすはずだ。
若冲も、そのために描いた「絵画」であり、この絵画を描くために仏門へ入ったのだろう。
宮内庁さん、
もうそろそろお返しになったらどうでしょう?
「国の宝」としてしまいこんでも、意味がありません。
「高松塚の飛鳥美人」のようになるまえに・・・・。
by bochibochi35
| 2007-05-26 09:52
| みちくさ哲学