信じてもらえないかもしれないけど、ぼくは「ひと」の写真を撮るのが得意ではない。
「写真」を撮るのは好きなのだが、「ひと」を前にするとかなり緊張する。
写真に残したいと思っても、どうしても「撮らせてください」のひとことが言えないときがほとんどだ。
もちろん無理に撮ったりすることもできない。さりげなく後姿にシャッターを切ったり、横顔を撮らせてもらったりすることはあるけれど、良い写真になることは、ほぼない。
写真家の武田花さんは「人の写真なんて恥かしくて撮れない」とどこかに書いておられたし、
藤田一咲さんも苦手であるように書かれていた記憶がある。
「後姿を堂々と撮ったらいい」とも書いておられた。
こんな風に言ってもらうと、少しほっとする。ぼくも、根が小心なのだ。
それでも、ひとの写真を撮らせてもらうことがある。
家族や知人・友人にかぎらず、旅の途中で出会った人や、お店の方などがそうだ。
撮らせてほしいと思う前に、少しお話させてもらった人がほとんどである。ひとときの間、お知り合いになったひとと言っても良いだろうか。
お話の終わりに、「ちょっと一枚いいですか?」と聞いて「いいよ」と言ってくださった方が、フィルムにその姿をとどめることになる。ほとんどの人は、やさしいまなざしをくださる。
何枚かの人物の写真は、そうして撮らせてくださった写真だ。「あたたかさ」がこもっている。
それは、ぼくの技術ではなく、そのひとの持つ「あたたかさ」なのだ。
とある方のブログに、写真に写るひとの「きもち」について書かれた文があった。
わかっていたつもりのことなのに、改めて「はっ」とした。「どきどき」してしまった。
思わず、いままで撮ってきた人物の写真を見直そうかとも思った。恐くてできないが・・・。
もしかしたら、また一段と人の写真を撮るのが苦手になるかもしれない。
でも、やはり、やめることはできないだろうと思う。あらためて「そのこと」に気づいたことで、
「人の持つ魅力」について、より一層ひきつけられていくのだろう。
そのかたは、「植物などについても同じではないか」とおっしゃられていた。
まさに、そのとおりだと思う。写真に写るものからは、それを撮った者に対する「想い」が発信されているのではないだろうか。またその写真には、「合わせ鏡のように」自分の姿や気持ちまでもが写りこんでしまうような気がしてならない。
そんなことを想いながら、いままで撮ってきた写真を眺めていると、
おもいもしなかった自分に出会うような不思議な気持ちになる。
うまく言葉にできないのだけれど、「写真」の魔力というのだろうか。魅力というのか・・・。
どこまでもわからないことが、なぜかしら「ここちよい」のが不思議だ。