2005年 07月 05日
「雲南」へのいざない |
大学へは1989年に入学した。浪人しても志望校には受かることができず、たったひとつだけ合格した大学へ行くことになる。「運命」なのか神さんの「いたずら」なのかは、わからない。偶然に身をまかせる人生は、このとき始まったものではなかったから、気にはしなかった。それよりも、何とか大学生になれた「安堵感」のほうが大きかったからだろう。
「社会学」とはなんぞや?ということすらわからずに「志望」だけは「そこ」に絞っていたぼくが、何かの間違いで「中国学科」に紛れ込むことに・・・。ただ受けたからには「理由」は存在していた。昔から旅が好きだったぼくが高校のとき、目にとまった新聞記事に、「中国へ『鑑真号』の船旅」について書かれていた。これは必ずやってみたい。ぼくの胸の中に刻みこまれた一つの夢だった。
単純だけど「その旅」をするには「中国」について知らないとな!というのが中国学科もついでに受けてみた理由。そして「そこ」へ行くことになった。急に中国が目の前に迫ってきた。学科の先輩に勧められて、いつのまにか、1回生を終えた後、「中国ひとり旅」に出ることにきめて、「歩き方」を熟読し、せっせと「資金」を貯めたのだ。
2月、住み込みの仕事を1月休ませてもらい、中国へ旅立つ。持っていたのは「2ヶ月の査証つき旅券」「往きの『鑑真号』チケット」と「T/C20万円」。ルートは現地できめることに。このとき雲南を旅することは決まっていない。大阪南港から上海港へ。船は2晩をかけてたどり着いた。旅は最初から苦難の連続。まだまだ中国語はカタコト。筆談を重ね、半分を理解してもらうぐらい。
2日後、ハンベソかいて上海空港から成都へ。いつのまにか、「成昆鉄道」を目指していた。旅をはじめて1週間。逞しくも「ぼろぼろ」になったぼくは、昆明に倒れこむようにたどり着いた。その地の人々は、なぜかとても穏やかでやさしい。昆湖飯店の人たちは、果物を勧めてくれたり、体調不良のぼくをいたわってくれる。少数民族の人たちとも仲良くなった。次にくるときはここに住んでみたい。雲南というところが「桃源郷」のように思えたのだ。
帰国後もその熱は覚めやらず・・・・1年半後、そこに暮らすことになる。
「社会学」とはなんぞや?ということすらわからずに「志望」だけは「そこ」に絞っていたぼくが、何かの間違いで「中国学科」に紛れ込むことに・・・。ただ受けたからには「理由」は存在していた。昔から旅が好きだったぼくが高校のとき、目にとまった新聞記事に、「中国へ『鑑真号』の船旅」について書かれていた。これは必ずやってみたい。ぼくの胸の中に刻みこまれた一つの夢だった。
単純だけど「その旅」をするには「中国」について知らないとな!というのが中国学科もついでに受けてみた理由。そして「そこ」へ行くことになった。急に中国が目の前に迫ってきた。学科の先輩に勧められて、いつのまにか、1回生を終えた後、「中国ひとり旅」に出ることにきめて、「歩き方」を熟読し、せっせと「資金」を貯めたのだ。
2月、住み込みの仕事を1月休ませてもらい、中国へ旅立つ。持っていたのは「2ヶ月の査証つき旅券」「往きの『鑑真号』チケット」と「T/C20万円」。ルートは現地できめることに。このとき雲南を旅することは決まっていない。大阪南港から上海港へ。船は2晩をかけてたどり着いた。旅は最初から苦難の連続。まだまだ中国語はカタコト。筆談を重ね、半分を理解してもらうぐらい。
2日後、ハンベソかいて上海空港から成都へ。いつのまにか、「成昆鉄道」を目指していた。旅をはじめて1週間。逞しくも「ぼろぼろ」になったぼくは、昆明に倒れこむようにたどり着いた。その地の人々は、なぜかとても穏やかでやさしい。昆湖飯店の人たちは、果物を勧めてくれたり、体調不良のぼくをいたわってくれる。少数民族の人たちとも仲良くなった。次にくるときはここに住んでみたい。雲南というところが「桃源郷」のように思えたのだ。
帰国後もその熱は覚めやらず・・・・1年半後、そこに暮らすことになる。
by bochibochi35
| 2005-07-05 18:59
| 春城~雲の南~